耳塚(鼻塚)

京都市東山区の歴史的遺跡

About

京都市東山区の一角、正面通りを歩み進めると、静寂に包まれた小さな公園の片隅に、歴史の重みを感じさせる塚が佇んでいます。それは「耳塚」、あるいは「鼻塚」とも呼ばれる場所で、豊臣秀吉の時代、文禄・慶長の役(1592年~1598年)において、戦功の証として持ち帰られた朝鮮や明国の兵士たちの耳や鼻が埋葬されたと伝えられています。

塚の上には、時を超えてそびえる五輪塔が建てられています。その高さは約7メートル、塚全体の直径は約26メートルにも及び、周囲は石柵で囲まれています。この五輪塔は、寛永2年(1643年)の古地図にもその姿が描かれており、塚の築造から間もない頃に建立されたと考えられています。

塚の前には、明治31年(1898年)に建立された「耳塚修営供養碑」が立っています。これは、豊臣秀吉の三百年忌に際して行われた大規模な修復を記念して建てられたもので、碑文には秀吉の慈悲深い行為として、敵味方を問わず戦死者を供養したことが記されています。

この地は、戦国時代の悲劇を今に伝える場所として、訪れる人々に深い思索を促します。塚の周囲には、豊国神社や方広寺など、豊臣秀吉ゆかりの史跡が点在し、歴史の息吹を感じさせます。また、近隣には和菓子作り体験ができる甘春堂などもあり、歴史と文化が交差するエリアとなっています。

耳塚は、戦争の悲惨さと平和の尊さを静かに語りかける場所です。訪れる者は、歴史の重みを感じながら、過去の出来事に思いを馳せることでしょう。