旧浦上天主堂の遺構

長崎市の歴史的遺跡

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長崎の丘陵地に佇む浦上天主堂の境内には、時の流れを超えて語りかける遺構が静かに息づいています。かつて東洋一と称された壮麗な赤レンガの大聖堂は、1945年8月9日の原爆により無残にも崩れ去りましたが、その痕跡は今もなお、訪れる者の心に深い感慨を呼び起こします。

境内を歩むと、左手の小川のほとりに目を引く巨大な鐘楼の残骸が横たわっています。この鐘楼は、原爆の爆風によって吹き飛ばされ、重さ約50トンもの鉄筋コンクリート製の構造物が川の流れを塞いでしまいました。当時、これを動かすことは困難を極め、川の流れを変える工事が行われたと伝えられています。今もなお、その場に静かに横たわる鐘楼は、戦争の悲惨さと平和の尊さを物語っています。 (at-nagasaki.jp)

また、境内には被爆した石像が点在し、熱線で黒く焼け焦げ、鼻や頭部を欠いた聖人の像が無言のまま立ち尽くしています。これらの像は、原爆の猛威を物語る生々しい証人であり、訪れる者に深い祈りと平和への誓いを促します。 (city.nagasaki.lg.jp)

さらに、天主堂の正面入口には、被爆遺構である「悲しみの聖母」と「使徒聖ヨハネ」の像が掲げられています。これらは、旧浦上天主堂を設計したフレノ神父自らが彫刻したもので、原爆の被害を受けながらもその姿を留めています。中央の「十字架のキリスト」像は原爆で破損したため複製されたものですが、これらの像は旧天主堂の面影を今に伝えています。 (at-nagasaki.jp)

浦上天主堂の歴史は、信仰と苦難、そして再生の物語です。キリシタン弾圧の時代を経て、信者たちは明治6年(1873年)に教会の建設を計画し、明治28年(1895年)にフレノ神父の設計による建設が始まりました。30年の歳月をかけて大正14年(1925年)に完成したこの大聖堂は、正面の双塔にフランス製のアンジェラスの鐘を備え、東洋一のレンガ造りのロマネスク様式の教会として人々に親しまれました。しかし、昭和20年(1945年)の原爆により建物は破壊されましたが、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで再建され、昭和55年(1980年)にはレンガタイルで改装され、往時の姿に復元されました。現在も、原爆の爆風に耐えたアンジェラスの鐘が一日3回奏でられています。 (city.nagasaki.lg.jp)

この地を訪れると、過去の悲劇と現在の平和が交錯し、心に深い感動を与えます。被爆の遺構は、戦争の悲惨さを伝えると同時に、平和への祈りと希望を象徴しています。浦上天主堂の境内を歩きながら、歴史の重みと人々の信仰の力を感じ取ることができるでしょう。