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松阪の本町通りを歩くと、時代の流れに抗うかのように佇む一軒の屋敷が目に入る。それが、旧小津清左衛門家である。格子と矢来に囲まれた質素な外観は、内に秘めた豪商の歴史を静かに物語っている。
小津家は、江戸時代に江戸で紙問屋を営み、三井や長谷川と並ぶ松阪屈指の豪商として名を馳せた。その本宅であるこの屋敷は、江戸中期の1700年前後に建てられた主屋を中心に、向座敷、料理場、内蔵、前蔵などが現存している。主屋は、時代の移り変わりとともに増築を重ね、格式高い大規模な町家としての風格を今に伝えている。
屋敷内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、商いの場であった「見世の間」。ここで小津家は紙を商い、多くの客人を迎え入れた。奥へ進むと、勘定場や奥座敷があり、商人としての繁栄と家族の暮らしが交錯する空間が広がる。
特筆すべきは、内蔵の2階に設けられた鉄格子の天井である。これは、瓦を外して天井から侵入する盗賊を防ぐための工夫であり、当時の商人たちがいかに財産を守ることに心を砕いていたかが伺える。さらに、火事を恐れた小津家は、地中に埋める形の「万両箱」を用意し、財産を守る手立てとしていた。
庭に目を向ければ、四季折々の草花が彩る日本庭園が広がり、縁側に座れば、時の流れを忘れさせる静寂が心を包み込む。ここで、かつての商人たちが商談の合間に一息ついていた情景が目に浮かぶ。
また、伊勢神宮への参詣者が多く行き交った時代、小津家は旅人たちに「むすび施行」を行い、炊きたてのご飯で作ったおむすびを振る舞っていたという。これは、信心深い松阪の人々が、旅人をもてなすことで徳を積むという風習の一環であり、小津家の慈愛深い一面を物語っている。
旧小津清左衛門家は、平成8年から「松阪商人の館」として一般公開され、平成31年には「旧小津清左衛門家」として再びその名を冠した。この屋敷は、松阪の豪商の本宅としての規模と格式を今に伝える貴重な建築物であり、近世の町人文化を知る上で欠かせない存在である。
松阪の街並みに溶け込むこの屋敷は、時代を超えて訪れる者に、商人たちの息遣いと、彼らが築き上げた文化の香りを伝えている。その扉を開けば、江戸時代の繁栄と人々の温もりが、静かに迎え入れてくれるだろう。