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不忍池の西岸に立つと、時の流れが静かに語りかけてくる。この地は、かつて東京湾の入江であり、海岸線の後退とともに取り残され、池となったと伝えられている。江戸時代、寛永寺の建立に伴い、比叡山延暦寺を模して不忍池が琵琶湖に見立てられ、中央の中島には竹生島を模した弁天島が築かれた。この弁天島へは、当初船で渡っていたが、寛文年間の末期に橋が架けられ、歩いて参拝できるようになった。 (kodomo.go.jp)
池の西側、池之端と呼ばれるこの地は、江戸時代から文化人や実業家が邸宅を構えた場所である。明治時代には、日本画家・横山大観が自邸を構え、ここで多くの作品を生み出した。また、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎もこの地に邸宅を構え、その庭園は現在「旧岩崎邸庭園」として一般に公開されている。 (tokyo.itot.jp)
明治時代、不忍池は競馬場としても利用された。明治17年(1884年)から明治25年(1892年)までの間、共同競馬会社によって競馬が開催され、貴族の社交場として賑わいを見せた。この競馬場は、池の北側を埋め立てて整備され、明治天皇も観覧されたという。 (mag.japaaan.com)
池のほとりを歩けば、夏には一面に広がる蓮の花が目を楽しませてくれる。江戸時代から蓮の名所として知られ、周囲の茶屋では蓮の葉で包んで蒸した「蓮飯」が提供され、庶民の行楽地として親しまれてきた。 (kodomo.go.jp)
また、池の周辺には多くの石碑が点在している。弁天島に建つ「不忍池由来碑」には、上野台地と本郷台地の間の地名「忍ヶ丘」に由来するとの説が刻まれている。 (t-navi.city.taito.lg.jp)さらに、徳川家康が所持していた眼鏡をかたどったとされる「めがねの碑」や、スッポンへの感謝を示す「スッポン感謝之塔」など、ユニークな石碑も見られる。 (kodomo.go.jp)
不忍池の西岸に立つと、歴史と文化が織りなす物語が静かに語りかけてくる。ここは、時代の変遷を見守り続けてきた、東京の心のオアシスである。